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History of
Niihama National College of Technology Basaball Team

新居浜高専
野球部の歴史

−80年代の活躍を中心に−

  「新居浜工業高等専門学校40年記念誌」
(2002年執筆・2003年発行)
の「部活動の記録」より一部修正

はじめに

 本校野球部の創部は、学校創設の翌年 1962年、高校野球連盟への参加は、1976年からである。ユニフォームは白を基調としたものから、紺と白のものに変わり、現在の縦縞のスタイルに至っている。

過去の戦績の中で、特筆すべきは、1982〜1983年の活躍、特に県大会準優勝及び四国地区大会出場である。この頃を中心に40年の歴史を回顧してみたい。(以下敬称略)
低学年の活動


◆初の8強入り

 1980年に会社の社長を務める秋山達英氏(故人)が監督就任した。反復練習による基本を徹底し、多くの対外試合により実戦経験をつけるといった強化が実を結び、 1982年夏には下手投げの大澤慶嗣 ― 強打の宗雪明志のバッテリーを中心にして、創部20年の節目に初の県大会8強入りを果たした。この頃は、新居浜市内は勿論今治の全チームとも練習試合を行った他、徳島・池田(この年畠山投手で全国優勝を果たす)や香川・尽誠学園、岡山理大附などの県外の強豪とも戦って自信をつけたことの成果でもあった。
「特別変わった練習もしなかったが、基本を徹底して身に付けたこと、体力強化に励んだことが、よかったのではないか。とりたてて目立った選手も際立った力もなく、部員数も少なかったが、厳しい練習を通じて、強い結束力があったと思う(宗雪)。」

 翌1983年度のチームは、岩本一男、兵藤信哉、大澤寛嗣らの投手を中心に、秋(選抜出場校の今治西に敗退)、春(八幡浜工に敗退)、夏(県準優勝の川之石に敗退) と連続して県大会8強入りと、県内でも安定した好成績を収めた。 4強への壁は厚かったが、この経験が秋季愛媛大会の快進撃につながるのである。


◆秋季大会での快進撃

 その秋から、秋山監督が社業多忙のため退任し、夏の大会まで主将であった3年生の高橋雄次が監督となった。前チームから残った大澤、羽藤雅史の投手陣、神岡正明、村上史一らが中軸の打線、雑誌でもとりあげられた石川照夫中堅手らの守備と、攻守がかみ合い快進撃が始まった。東予大会を僅差で勝ち抜くと、県大会1回戦で松山南を7-4で退け、準々決勝では大洲農を2-0と完封し、念願の準決勝進出を果たす。さらに準決勝では西条農を終始圧到し 9-3 の快勝、遂に決勝に駒を進めた。

 決勝戦の相手は当時、甲子園から遠ざかっていた名門・松山商。めまぐるしい試合展開となった。高専はいきなり先行されたが、相手・酒井投手(後近大-日ハム-阪神)の外角球を狙わせる作戦が効を奏し、3点を追う3回、3安打で2点を返し、 4回には5長短打、打者一巡の猛攻で3点を奪って逆転した。しかし松山商は5回、4連打で同点に追いつくと、 6回には白石の本塁打、松田の満塁二塁打などで4点、 7回にも2死から4点を加えて7-11と勝負を決め、高専は準優勝に終わった。

「終盤相手の目の色が変わり、気迫で圧到された(大澤投手)。」
「前半は指示が当たったが、やはり松山商が一枚上手だった。酒井投手の外角球を狙わせ、前半は成功したが、追いつかれてからは守勢に回ってしまった。準決勝は上出来です(高橋監督:当時のコメントより)。」

◆四国大会出場

 この準優勝により、秋季四国地区大会に出場することとなった。全国的に見ても、高専の野球部が都道府県以上の大会に進出したのは、このときが初であり、現在もこれに続く快挙は見られていない。

 県大会では勝ち上がるごとに学校内での注目度も上がっており、四国大会の会場となったは大勢の教職員・学生・父兄が応援スタンドを埋めた。しかしながら相手は当時全国的な強豪だった徳島・池田。
試合結果を当時の愛媛新聞はこう伝えている。

池田 11-4 新居浜高専
新居浜高専、力に屈す

池   田 11 片山−長江,柿本
新居浜高専 大沢,羽藤−村上

 新居浜高専は頼みの大澤投手が14安打され、打線も4安打散発に封じられて敗れた。新居浜高専は初回、四球と不運な二塁打などで池田に3点を奪われた。中盤以降も強力打線に捕まり、4,6回に計3点、8回には5点の大量得点を許した。池田の片山投手は正攻法のピッチング。 10三振を奪う好投で、新居浜高専の反撃を断ち切った。

18歳監督に壁厚く

  18歳監督の挑戦は実らなかった ― 高等専門学校で史上初めて甲子園を目指していた新居浜工業高専の監督は 3年生の高橋雄次君。夏の大会まで主将だった。60歳の蔦文也監督に立ち向かったが『何もできないうちに終った。やはり池田の壁は厚かった』この年の夏の大会が終った8月に監督就任、わずか3ヶ月でチームを四国大会に出場させたが、池田にはかなわなかった。


 試合の中では、前出の石川の美技や、珍しいトリプルプレーでピンチを無失点に切り抜けるなど、守備での活躍が記録に残っている。

 昨今のような「21世紀枠選抜」の制度 (特殊な環境下である程度の好成績を納めた学校の特別推薦枠)が当時あれば、甲子園出場もあったのではないか、と今にして思われる。

「勝ち進んでいる間のことや試合自体のことよりも、厳しかった練習の方が印象深い思い出になって残っている。四国大会のことは夢の中にいるようだった。負けて悔しいとか惜しいというよりも、折角多くの人に応援に来てもらったのに負けて申し訳ないという気持ちのほうが大きかった。卒業後も他の高専出身者からこの話題が出ることがあり、よそからも注目されていたのだなと実感する。」と大澤は振り返っている。

◆その後〜現在まで

 翌夏84年の大会は、松山商と緒戦で当たる不運で敗退。以降1〜2勝はするが、後はなかなか勝てないという時代が続くようになり、現在に至っている。春、秋の東予地区大会を勝ち抜いて県大会に進んだのは93年の秋のみであり、このときも県大会緒戦で新居浜西に0-1で惜敗している。

 本年(2002年)は、四国大会出場の頃に生まれた世代が中心となっている。緒戦で今治西、西条、丹原と県下有数の強豪に当たり、最終的には地力の差を知らされるコールド負けを喫した。しかしながら、西条戦では一時リードして優位に試合を進めるなど、健闘を見せた。

 高学年の活動

 一方、「高校野球」を卒業して、高学年のチームとなると、同好会的な活動に変わる。これは昔も今も同様のようである。 ただ、かつては、四国の大学リーグに参加していた。

 初参加の1983年には、いきなり2部優勝。その後も1部でも好成績を納め、1985年は春同率3位、秋同率2位、大学野球選手権(当時は高専チームにも出場権があった)出場を後一歩で逃したこともあった。

 しかしその後は、高学年部員のモティベーションの低下や経済的負担の増加などのため活動は停滞気味となり、1988年春に二部落ち、1989年にリーグ脱退となった。

 以降、現在に至るまで高専大会が主な活躍の場となっている。

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